発想豊かな人になることは、自分の人生をも豊かにするように思います。
発想は行動の源泉ですからね。
では発想の源泉はどのようなものなのでしょうか?
それは思考であり、経験です。
ニュートンがリンゴを落ちたのを見て、万有引力を発見した!とありますが、
引力そのものは発見以前からあるわけで、発見されたからといって、引力が生まれたわけではありません。
しかしここに大事なポイントがあります。
それは「リンゴが落ちるのを見る」という実体験と「なぜそのようなことが起きるのか」という思考です。
そして「なぜ?」を生み出したのが直感的な発想であり、「引力を発見した」のは発想を理論化した結果です。
このことは言うなれば「無から有を生み出した」ことになり、
ちょっと仏教の言葉を借りるのなら「空」ということになります。
「あるけどない」:すでにそこには存在している(ある)けれど、まだ気がついていない(ない)」
「ないけどある」:「まだ気がついていない(ない)けれど、そこに存在しているもの(ある)である」
発想を理論化することは、例えば身近な物理現象を解き明かすようなものであり、人の心理を解き明かそうとするものです。
物理学や心理学と言われるものですが、それよりも大きなもの…理(ことわり)を解き明かすことでもあると思います。
いずれにおいても、そこに経験があり、思考があります。
発想はそうしたなかで熟成させてきた結果として、生み出されてくる直感的なものだと思います。
もちろんそこには「状況を分析する」ということも含まれますが、これは思考の一部でしょう。
経験は、五感を使う経験と頭を使う経験と心を使う経験があります。
どの経験にもあてはまるのが「実際にやってみること」です。
なぜなら、五感も、頭も、心も「見えないもの」です。
「見えないもの」を発動させるには「実際にやってみる」という方法しかないように思います。
ネットからの情報よりも、実際の行動のほうがいいに決まっていますし、重みがちがいます。
クチコミでおいしそうな話を見ても、食べない限りは本当のおいしさはわかりません。実はおいしくないことだってあります。
だから生徒達にはよくこういいます。
「考えるんじゃない、感じるんだ!」と。
これは、ごちゃごちゃ言い訳じみたことを先に言うのではなく、何でもやってみなさい、ということです。
とかく頭でっかちになりがちな昨今の子ども達(大人もそうですけどね)ですから、体が動かないのです。
ネットからの情報は鵜呑みにするくせに、実際に自分ではやろうとしないのでは、思考停止になりかねません。
実際に何でもやってみる
それこそが、実感できる「感覚」を得られる本当の経験になっていくと思います。
「豊かな発想は、多くの経験から生まれる」ものだと思っています。
論理的思考=言語化
次に思考です。
思考に必要なものが2つあります。
思:心の豊かさ
考:言葉の豊かさ
つまり「感じることと伝えること」の2つです。
同じ虹が出ている風景を見ても「きれい」と思うのか、「虹だねぇ」と思うのか、「虹ができる理由は?」と思うのか。
きれいと思う人は詩人になれます。
虹だねぇと思う人は経済学者になれます。
虹ができる理由はと思う人は科学者になれます。
どの場合でも、必要なのは「自分の中の感覚=直感」です。
そして、どの場合でも、必要なのは「その感覚の言語化」です。
思考するということは、論理的にものを考える、と言えます。
論理的思考、つまり言語化です。
「感じたことを言語にして伝えること」が思考するということなのです。
伝えるのは別に自分以外の誰かというわけでもありません。
自分だけでもいいのです。
言語化とは「発する音としての言葉」という意味だけではありません。
「あぁ、そうかそういうことか」と自分の中で悟ることも言語化なのです。
なぜならそういう場合でも「コトバが頭の中に浮かんでいる」はずだからです。
もしかしたらコトバにならない風景や情景かもしれませんが、そういうものすら言語化することはできます。
ただし「それを表す言葉を知っている」かどうかは別問題ですけどね。
豊かな発想の源泉
それは「経験と思考」です。
その2つには「感覚と言語」が不可欠です。
英明塾では、子ども達に
「学ぶ経験(普段の学習)とそれが活きる経験(テスト等)」を通じて、
「なぜそうなるのかという思考(学習中の疑問点の解決)」を積み重ねていただいています。
学習という経験が生み出す「嬉しい」や「悔しい」の感覚
私たちの想いを伝え、子ども達の疑問点の解決を促す言語
英明塾で学ぶことが、子ども達の豊かな発想の源泉となる感覚と言語を磨いくことになり、
ひいては彼らの人生が少しでも豊かになることが、英明塾の役割です。