正解には正解の理由があり、
間違いには間違いの理由があります。
その間違えた理由に対して「なんで?」と思う生徒は多いのですが、その反省は喉元過ぎれば熱さを忘れるというように、自分の席に戻ることには、すっかり忘れてしまい、元の木阿弥、また同じミスを繰り返してしまう・・・
そんなことって、よくあります。
間違うことは大したことはないのですが、
その間違った理由を見過ごすことは大問題です。
あとで大きな失敗に繋がってしまいますから。
そしてそういう失敗は「防げた」失敗なはずです。
ということもあり、
間違いの理由を書き出すことは「自分に対する教訓」として、目に見える文字にして、自らの意識に刷り込まないといけません。
いわゆる「恥」というものです。
「恥」を知らないものに成長は訪れません。
中央校でやっている「罰ゲーム」も「恥」を感じさせる役割があり、もし未だに顔にペン入れをすることを喜んでいるようなら・・・まだまだ目的達成とは言えないんですね。
さて写真のノートですが、
解き直した後のノートです。
解き直しというのは、もう一度同じ問題をすることをいいますが、
単純に同じ問題をもう一度やったところで、あまり意味はないんですね。
瞬間的に同じ問題をするのですから、正解の言葉を書くことはきっとできます。
おそらく正解の記号を書くこともできます。
しかしそんなことには意味はないでしょう?
それよりも「なぜ間違えたのか」の理由を自分で分析することのほうがよいのです。
そして書き出します。
間違いの理由を「自分で気づき、目で見る」ほうが大事なのです。
そうして自分がしでかしたミスを恥だと思うことで、
二度と同じミスを繰り返さないようにな…ってほしいなぁと思って、こういう指導をしています。
無知の知とは、かの有名な哲学者が、己の知らないことを知りたいという欲求を表した言葉ですが、
無知の恥とは、己の知らないこと(間違えたこと)を恥だと思い、内省し、自己成長を促す言葉です。
恥を知ることは、自分の浅はかさを知ることです。
それはまた、自分の中にある「こうなりたい」という欲求を知ることでもあります。
おそらくそういう自分は、他人と比べてどうこうというものではなく、自己の中にある理想的な自分との対比なのではと思います。
対比とは同時に対話となります。
常に自分の中にある自分自身と対話を深めることにより、常に考え、思索し、理想と現実のギャップを知り、その「知」こそが自らを動かす原動力になるのではと思います。
もちろんそこには、自分の内側から発せられる内的欲求である「こうなりたい」欲求がないと発動しないのですが、そのへんはモチベーターたる我々の役割かなと思っています。
ということで、間違いの理由を知ることは、自分を成長させる糧になります。
ある意味、そういう糧(間違い)が多ければ多いほど、人は成長していくのです。
もちろん「間違い」から逃げず、ちゃんと分析することが前提にないといけないのですけどね。
そうしないと、ただの「ミス繰り返しやろー」になってしまいます。
それは…残念ですよね(笑)
※無知の知は、「自分は何も知らないということを知った」というのがよく言われている意味ですが、ちょっと意訳してます。ソクラテスさんですから、きっと深イイ意味があるのかなと思っています。
※無知の恥は…どこかにある言葉かもしれませんが、多分に造語ですm(_ _)m
コメントをお書きください