本日は、30度を越えているのかいないのか?
どちらにしても、アツいのには変わりなく、
昨日の体育祭がこんなんだっから、半熱中症、半脱水症状者が出ていてもおかしくないなぁと思いつつ、がんばる生徒を見ています。
高校生は、中間考査真っ最中で、テストが終わって昼過ぎから勉強中。
中学生は、体育祭も終わり、早い学校で6月10日皮切りに、18日まで続きます。
小学生は、運動会の練習もあり、日に日に浅黒くなる肌にたくましさを覚えます。
外も暑いが、中も熱い!
そんな季節がやってまいりました。
テスト範囲と現状の学習状況を照らし合わせて、現時点でのギャップを知ることが、この時期大事なテーマです。
テーマというより、危機感ってやつですが、のんべんだらりとした学習から、これまで以上に高い問題意識と目標を絶対越えるとの意地をかけて、勉強に取り組まなければいけません。
とはいえ、テスト前だからそういう高い意識になるかというと、そうでもなく…
やっぱり「普段の学習」からそういう意識を持たないといけませんし、
「決めたこと」をやり遂げる意地を持たない限りは、なかなか維持は難しいです。
ウソ・・・
とまでは言えませんが、しかし「はい」という返事の軽さに辟易することはあります。
「これ、やってくるんだぞ」「はい」
「これ、宿題だからね」「はい」
「明日も来るんだぞ」「はい」
「ここはちゃんと覚えているか」「はい」
…
果たしてどれだけの生徒が、自分が発した言葉「はい」を真剣に成そうとしているのか。
その場限りの「はい」で、自分を成長させていくことはできません。
現時点でもそうなのですから、ましてや成人になり、社会人になり、責任ある年齢と立場になっていく子ども達が、軽薄な「はい」を言い続けることは、やはりよいこととは思えません。
そういうのを許していては、とりあえず「はい」が席巻してしまい、信義も信頼も信用もなくなってしまいます。
そういう人を、あなたは信じられますか?という話なんです。
自分の子供にそういう人になってほしいのですか?という話なんです。
僕はそういうのは嫌いです。
もちろん、みかんせいに集まる生徒にはそういう「とりあえずはい」人間になってほしいとは全く思いません。
自分でも良くないなぁと思っているにも関わらず、言い逃れと言い訳に終始し、その場をごまかそうとする人間になってほしいとは全く思いません。
ましてや、そんな言い逃れと言い訳を「自分の中でのウソ」と気づきながら、その場をごまかし切った後に、よかったぁなどと思うような人間になってほしいとは思いません。
だからそういう生徒に対しては、断固として厳しい態度で接します。
叱ります。
そしたら…嫌われます(笑)
「信」という字は、「人の言うこと」と書きます。
つまりは、人の言うことを真受けに受けて、進んでいくということです。
その逆もしかりです。
「人に対して言うこと」という意味も含んでいます。
つまりは、人に対して発した言葉は守りきり、実行するということです。
そうした積み重ねが「信」を生み、「信頼」を得て、「信用できる」人になり、「信義礼節を知る」大人になっていくのだと思います。
人は何かのタイミングで大きく変わるチャンスを常に得ています。
目の前のチャンスをつかめるかどうかなのです。
気づいたチャンスを活かせるかどうかなのです。
チャンスを活かすには、心が大事です。
これをやらねばならないという危機感であり、
自ら言ったことを実行していく責任感であり、
自分で自分を育てていくという期待感なのです。
感じたことをいついかなる場面でも実施していく。
塾の中だけでのことではないのです。
塾の外でこそ成就することなのです。
浅薄な「はい」よりも、
素直な心の「わかりません」の方がよっぽど人間的に魅力があるように思います。
そこに学ぼうとする心があるのなら、
わかったフリする「はい」ほど無意味なものはないと自分の心が教えてくれるハズです。
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