「先生、わかんなーい」(ノート真っ白)
『教えません』
「だって、わかんないもん」(ノート真っ白)
『自分で考えるまで教えません』
「ケチ」
『ケチではありません。先生にもわかるように考えたことを書いてください』
「ふー...(情報を書き出して..).. ◎△$♪×¥●&%#?...あ!!わかったかも...」
『GOOD!!君の課題は、頭の中を書き出すこと。これをすればできるようになるよ』
日記<わたしの課題は、頭の中でやらないこと!図をかくこと!>
毎日、図を使ってどんぐりを解いていても、
ふと気をぬくと頭の中でのみでやろうとする癖が出てしまいます。
文章が長くなればなるほど、頭の中でやろうとしてしまうんです。
これはどうしてでしょう?
思うに、私たちは反射的なものに慣れすぎているのかもしれません。
反射が一番エネルギーを使わないですからね。つまりは、楽に慣れちゃってるんです。
ぽんっと答えが出てくる状況に慣れてすぎているのかもしれません。
どんぐり文章題。
解ける解けないではなく、その過程を大事にしています。
解けることと理解することは似て非なるもの。
理解するということは自分のコトバで説明ができること。
説明する...そこには必ず相手がいます。
どんぐり問題はコミュニケーションなんだな〜って最近よく思います。
自分との会話でもあり、誰かへ向けての思いやりかもしれないですね。
先日、体験に来てくれた子。
自分の思っていることを説明するのが苦手だと言う子。
「えっ、1年生の問題やるの?」と素朴な質問。
『そうだよ。1年生の問題だね〜。』
「簡単でしょ。」
『そうだね。簡単だと思うよ。でもやってみてね。しっかり説明してもらうから!』
解き終わり、説明。
『残念。間違っています』
「え、なんで?...あ、本当だ。間違えちゃった」
『そうだね。でもなんで間違えたんだろう?』
「書き間違えただけだよ」
『そうか〜、したらなんで書き間違えたんだろう?』
「読み飛ばしたから」
『それっていいこと?』
「ダメです」
『ダメかどうかは先生は知らないな。君がどう思ったかじゃないかな。どう思った?』
「・・・」
『1年生の問題、簡単だったでしょう?』
「はい」
『解けたのは解けた。でも、間違っちゃったよね。どう思う?』
「・・・」
『どんぐりは、文章を図にして考えていくんだったよね。
正確な図をかくってことは、正確に文章を読めているってことともう一つ、
相手にわかるように伝えるってことなんだよ。
面倒臭いって思うかもしれないけれど、真剣にやってみようよ。
次は、自分のためじゃなくて、年長さんに教える気持ちで解いてみよう!』
「・・・」
じっくり考えた末に
「できました」ドヤ
『なんだ!すごいじゃん!めっちゃ説明できてるじゃん!』
この生徒さんが持ってきてくれた図はほんとうに素晴らしいものでした^^
文章を一つ一つ図に表し、順序をつけて、自分の考えたものを全て書き出していました。
説明を聞くまでもなく、見ただけでわかる図。
よくよく話を聞くと、説明するのが面倒だってことみたいでした。
こんなに素晴らしく説明できるのにもったいないなって。
説明が伝わって、とても嬉しそうでしたからね^^
反射的な毎日にちょっとした刺激を与えるものは、
こういった「じっくりと向き合う時間」なのかもしれないなと思います。
なんでも早く答えを出そうとしてしまいますが、
一旦立ち止まって「理解して、伝える努力をする(つまり、自分の外に考えを出す)」
そこまで含めて考えるってことなのかな〜と思った瞬間でした。
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