それでは最終回です。
前回は、自分で考える理由は自己正当化なのか、本心からのものなのか、という話をしました。
ここで言っておきたいのですが、自己正当化の多くは本心のように思えるものです。
なぜなら、それが本当かどうかに疑念を持つこと自体、かなり勇気が必要だからです。
いま自分が思った理由は、本心なのか、自己正当化なのかと疑念を持つことは、勇気が必要なのです。
僕たちは、自己正当化を当たり前のことと思ってしまっています。
自尊心が傷つかないように、言ってみれば脳が私たちをだましているのです。
ちょっとエクササイズをしてみましょう。
かなり前のもので、これまで読んだ本や受けた講座のことを思い返してください。
そしてその結果どうなったかを思い出してみてください。
なぜその行動を選択したのか?
結果はどうだったか?
自分はそのとき何をしようとしていたのか?
どんなことを期待していたのか?
といったことです。
次の質問です。
その目標を達成できたか?
それは自分が最初から目指していた分野だったか?
自分はそれに満足できたか?
というものです。
達成できた方は、おめでとうございます。
しかしそうでない人は、なぜできなかったかを考えてみてください。
本は読んだ、講座は受けた。
だけど何も行動しなかったり、行動が続かなかったり、
別の本を読んだり、別の講座を受けたりと、
現時点で何も行動していない場合、
本当は素晴らしいアイディアに出会っているのに実行していないかもしれません。
これはとてももったいないことなのです。
ここで認識するべきことは、全部が全部そうでないとしても、
それは行動を起こさないことを自己正当化しているだけだと、ということです。
行動しない理由はいくらでもあるでしょうが、ここでは重要ではありません。
パースペクティブの転換によって、あれこれ理由をつけて実践しないことを自己正当化しないようにすることが重要なのです。
実践しなかった代わりに自分は何をしたのか、
自分自身に問いかけてください。
それはあなたがやろうとしたことよりも重要なことだったでしょうか?
もし重要じゃなかった場合は、
そこから逃げたことになります。
本当にしてみたかったことをしなかったのです。
本来は、どんな成果を求めるか、目的があったはずなのですから。
これまでを振り返り、
自分は果たしてそれで望み通りの成果を得たのかどうか、
もし望み通りの成果を得られていないなら、なぜそうなってしまったのか。
そうやって掘り下げていくと、僕が得た結論に達するはずです。
つまり…
自己正当化のために作り上げた理由を信じてしまっていた、ということです。
ちなみに先ほどの話に戻ると、
友人から言われた3年後にぼくのパースペクティブは一変したのですが、
それはカナダに留学した時です。
自分のこれまでしてきたことや考え方がほとんど通じない事実に気がつきました。
そこで僕は、これまでの自分をまったくぶち壊して、再構築しようと思ったのです。
とはいえ、少しはいいところもあっただろうと思い(ここが僕の甘いところなのですが…)
その「いいこと」とこれからしていこうと思ったことをベースにして、
新しい自分を築くことにしたのです。
そのときの「僕」が今の僕のベースになっています。
だから、あのときパースペクティブを一変したことによって、すべてが一瞬で変わったのです。
あの一瞬がなければ…僕はどうなっていたかわかりません。
その後もう一度パースペクティブの変換があるのですが…
それはまたの機会にいたしましょう。
この経験から、僕は「人は一瞬で変われる」という考えを信じるようになりました。
これがパースペクティブの威力なんです。
正しいパースペクティブを得て、目的がはっきりすると、
1時間、1日、1週間の終わりに自分の行動を評価することができます。
自分が目標としていた成果を実現できたかどうか、
できなかったとしたらその理由は何なのか、
その問題はパターン化していないか、
それとも今回だけのものか、
といったことを見極められるのです。
自分が本当に求めることは何なのか
を考えていくと、
人として生まれてきた理由は何なのか
ということを考えてしまい、
時々空を眺めている僕です…(笑)
より豊かな教育を
山田でした
コメントをお書きください