読む能力が発達すれば、当然ですが、文章に書かれたものが理解できる、利用できるようになります。学習面においては、教科書に書かれていることが理解できるし、利用できる。問題文に書かれていることが理解できるし、利用できる。他の本を読んでも同様です。
人生の本質に迫るための重要なファクターとして、本を重視するようになるでしょう。
本を通じて、多くのことを考え、自分という人間を見つける、見つめるきっかけになるからです。
しかし、前回も言いましたが、読書が好きになるってことではありません。
本を読める技術をつけることが重要なんです。
よく、うちの子は本を読んでいるのに国語ができないという保護者がいますし、本を読んでないから国語ができないという保護者もいます。
でも、前回もちょっと言いましたが、本を読む読まないと国語の成績の相関関係ってとても曖昧なんです。都市伝説に近いかもしれません(笑)。
どんな子でもそうですが、「読むための能力」を伸ばしていないと読書量の多寡はあまり関係ないのです。ただ、多読をする人は、いつの間にか「読むための能力=読書技術」を上げている可能性はあると思いますが、そういう子は本を読みながら、頭の中で文字が映像化されて、動いていると思います。
そして、時々本から顔をあげて、自分の考えに没頭していると思います。
例えばですが、推理小説を読んでいるときに、ずーっと読んでいるだけなのか、その先を予想しながら読むのとでは、やっぱりちょっと違いますよね。犯人探しをやりながら、犯行暴きをどのようにするのかを推理しながら読むほうが、確実に楽しいですからね。
字を目で追っているだけでは、本を読んだとは言えません。そういう「読み方」で多読をしても、意味はほとんどないでしょうし、それは本の読み方とは言えません。<続く>