みかんせい知創にはたくさんの「アイ」があります。
「悲哀」の「哀」
みかんせい知創での「哀しさ」は、2つあります。
伝わらない哀しさ
これは、「上手に伝えることができなかった」という講師の哀しさです。
生徒に申し訳ない気持ちで落ち込むこともしばしばです。
自らの力量不足を嘆くこともしばしばです。
だから毎日毎日、授業の予習を重ね、よりよく学習ができる方法を考えています。
守られない哀しさ
これは、「生徒が約束を守らなかった」という生徒の哀しさです。
勉強は日々の積み重ねがなければ、大成しません。
しかし、塾だけでの学習時間では足りないこともあります。
だから、宿題を出し、スケジュールを作り、目標を決めて、学習を進めていきます。
これが生徒と講師との約束事になります。
家庭と塾と両輪があってこそ、学業は成就するのですが、そのことが守られないとやはり厳しい結果になることもあります。
その結果は、生徒の現在と将来にダイレクトに関わります。
だからこそ、約束は守るために、一所懸命に勉強するのです。
「愛情」の「愛」
みかんせい知創は、とても深い愛情に包まれている塾です。
愛には、優しさと厳しさと両方あります。
本当の優しさは「やろうとすること」にではなく「やったこと」に対して示し、
本当の厳しさは「分かろうと努力しなかった」ことに対して示します。
褒めるべきは、才能にではなく、
才能を磨いた努力に対してするべきであり、
あなたはできる子だから、、、
などという根拠のないことで褒めてはいけません。
才能を褒めてはいけないのです。
子どもを安易に褒めることは、
その子の能力しか見ていないことになり、
その子の努力と、その子の真実を見ていないことになるのです。
これは「点数化された子ども」しか見れない大人になってしまうことにつながります。
だから…
大人は「子どもの現在」を知り、それを子どもに伝える役割を持っているのです。
子どもは「現在の自分」を知り、それを自分自身に受け止める強さを持っているのです。
みかんせい知創の愛情は、
生徒に「現状」を強く伝え、
それが今の自分のスタート地点だと「己を知ること」から始まります。
しかし、生徒はなかなか「自分の現状」を理解できません。
学齢を重ねるだけで、その年齢の能力が付くと思っているからです。
これは大きな間違いです。
能力は、それを磨いてきた人間にしかつかないのです。
努力を積み重ねてきた人間にしかつかないのです。
才能を褒めてはいけません。
正解や不正解にかかわりなく、どれだけその問題に対して、必死真剣に考え、取り組んできたか、ということを褒めないといけないのです。
意味のない○(マル)よりも、意味のある×(バツ)のほうが、よほど意味があります。
〇をもらうことを喜ぶ生徒ではなく、×から学ぶ生徒を育てるのがみかんせいの愛情です。
「教え合い」の「合い」
みかんせい知創では、生徒同士が教え合う風景がよく見られます。
これは、決して「講師が教えていない」というわけではありません。
講師は、生徒からの質問には答えます。
当たり前ですが...。
しかし「生徒が本当に分かったかどうか」はその場では実はわからないのです。
それというのも、「分かったつもり」になってしまうからです。
この「分かったつもり」は実は非常に怖いもので、教えた瞬間は当然、理解できます。
問題の考え方、解き方を、わかるようにきちんと解説しますから。
ただ、実際一人でもう一度やってみると、できていないことが多いのです。
これは「聞いていただけ」だからです。
もちろんその後、「定着学習」をするなかで反復学習と類題学習をしていきますが、それでも時間が経てば、忘れてしまっていることも多いのです。
これは、時間の経過が原因ということもありますが、緊張感と集中力が大きな原因です。
「教えてくれるのは当たり前」ですから、質問したら「理解できる」解説が得られます。
しかしこれは「受動的な学習」です。
つまり「聞くことが当たり前」であり、「自分で考えないことが当たり前」になってしまうのです。
これは…とてもつまらいことなのです。
なぜなら…自分の頭で考えていないからです。
ここに、緊張感と集中力の欠如が生まれます。
聞くだけで終わり、となると、その瞬間の理解だけで終わってしまいます。
しかし「後で、誰かに教えることになる」という緊張感があると、「どうやって教えていかないといけないのだろうか」という集中につながります。
さらに「自分が自分に授業をする」ことで、反復の理解にもつながります。
その延長上に「教え合う」ことがあるのです。
自分が本当に理解しているかは、
他人に教えないとわからないものです。
友達同士で、教え合うことで、自分の学習にもなり、友人の学習にもなります。
「一生懸命に伝えようとする」ことで、自分自身の理解が正しいことが分かり、
「一生懸命に聞こうとする」ことで、自分自身で考えようとする意識が高まります。
これが切磋琢磨ということです。
「出会い」の「会い」
子ども達との出会いこそが、みかんせい知創の講師にとって、何よりの宝物です。
僕たちは、生徒がいなければ、何もできません。
たくさんの子ども達に出会えることは、まだこの仕事を続けられることになります。
たくさんの子ども達がいます。
賢い子もいれば、勉強の苦手な子もいます。
明るい子もいれば、なかなか自分を表現できない子もいます。
積極的な子もいれば、前に出るのが得意じゃない子もいます。
しかし、どんな子も可能性を持っています。
その子にしかできない何かを持って生まれてきています。
その可能性は、しかし、自分で努力をしなければ磨くことはできません。
その何かは、一生懸命に生き、考え続けなければ見つけることはできません。
学び続けることが、そういった天恵・天命との出会いのきっかけとなることをこれからも出会い続ける生徒たちに伝えていければと思います。
それもまた、みかんせい知創の役割です。
「相談」の「相」
みかんせい知創では、生徒のいろいろな相談にものります。
学習の相談や進路の相談はもちろんのこと、将来の仕事の相談や大学進学後の相談など多方面にわたります。
卒業して、現在は社会人になった”元”塾生からも時々相談をうけます。
そういって巣立った子たちと会うのは、とても嬉しい限りです。
いつまでもそんな大人になった生徒たちから、「先生」と呼ばれ続けてもらえるよう、僕たちも日々精進を重ねなくてはいけないと、いつも以上に思う瞬間です。
もちろん、生徒だけじゃなく、保護者の皆様とご相談させていただくことも多いです。
年に2~3回ほど直接会って、面談させていただくのも、生徒たちについて、塾で何をしているのか、家庭で何をしていただきたいのかを相談させていただくために行っています。
面談では、学校や家庭の様子を聞いたり、塾での様子をお話しさせていただいております。
家庭と塾の両輪で、子ども達の成長を一緒にしていくのが、みかんせい知創の方針ですので、いつでも相談していただければと思っています。
みかんせい帯広南の森校
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みかんせい福井啓学校
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